「オルフェウスの窓」ファンサイト「Die Blaetter」管理人ぼーだらのブログです。いろいろ語っております。ツッコミお願い致します!
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ええ、わかってますよ、ちゃんと。
原作にもちゃんと書いてあるし、Wikipediaにも明記してある。ドイツ語版英語版だけでなく、短縮版の日本語版にもしっかりと。レーゲンスブルクの名前はローマ時代の「カストロ・レギナ」から来ていて、雨(Regen)じゃないってことは。
でも、「女王の城市」ならケニーギネンブルクとかレギ-ネンブルクとかになってもいいのに、こんな紛らわしい名前になったというのは、どこか「雨が似合う」要素がこの街にあったからじゃないかなぁ…とモウソウしちゃうのです。ドナウの川霧に包まれて、小雨そぼふる様子が一番美しく見えるとか…大阪都心部みたいなゲリラ豪雨じゃなくてね(^^;)。
「たのしみは昼寝せしまに庭ぬらしふりたる雨をさめてしる時」(橘曙覧)
この季節の日本の雨はこのようにあらまほしいものです(^^)。
SS書くのに自サイトからリンク張った「レーゲンスブルク市公式サイト」覗いたら、言語がドイツ語と英語だけになっている! 日本語版はオルファンのために設けられたと思ってるヲタクとしては、なんだかヲタ活の低迷の表れみたいで悔しい。万国のオルファンよ立ち上がれ!(何しに?)
原作にもちゃんと書いてあるし、Wikipediaにも明記してある。ドイツ語版英語版だけでなく、短縮版の日本語版にもしっかりと。レーゲンスブルクの名前はローマ時代の「カストロ・レギナ」から来ていて、雨(Regen)じゃないってことは。
でも、「女王の城市」ならケニーギネンブルクとかレギ-ネンブルクとかになってもいいのに、こんな紛らわしい名前になったというのは、どこか「雨が似合う」要素がこの街にあったからじゃないかなぁ…とモウソウしちゃうのです。ドナウの川霧に包まれて、小雨そぼふる様子が一番美しく見えるとか…大阪都心部みたいなゲリラ豪雨じゃなくてね(^^;)。
「たのしみは昼寝せしまに庭ぬらしふりたる雨をさめてしる時」(橘曙覧)
この季節の日本の雨はこのようにあらまほしいものです(^^)。
SS書くのに自サイトからリンク張った「レーゲンスブルク市公式サイト」覗いたら、言語がドイツ語と英語だけになっている! 日本語版はオルファンのために設けられたと思ってるヲタクとしては、なんだかヲタ活の低迷の表れみたいで悔しい。万国のオルファンよ立ち上がれ!(何しに?)
実はコレ、私も某同志に聞くまで知りませんでした。
SSネタ漁りで資料を読んだことは少なくないのですが、7月反動の後のボリシェヴィキの動きとかコルニーロフ将軍とかに気を取られていた。レオの命日の方が算出しやすい気がしていました。
「ユリウスのセリフに『確かきょうだったね、ケレンスキーがモスクワから戻ってくるのは』とある」というヒントをいただいてようやくわかりました。いや、ユリちゃんは全然ノーマークでした。
ケレンスキーがモスクワに行っているのが「モスクワ国政協議会」だと考えれば、国政協議会の開催は1917年8月12~15日。モスクワーペテルブルク間は約600キロですから、1泊2日くらいはかかったとしたら…確かに16日か17日くらいになりますね。
600キロは意外と近くありませんか? 東京ー大阪間が500キロですから、1.2倍かぁ…3倍はあるような気がしていたのはきっと、地図の上下程距離が膨らむメルカトル図法のトリックでしょう。日本部品供給装置工業のサイト→http://jpf.ne.jp/index.html?http://jpf.ne.jp/html/08/08_38.html
によると、1909年、新橋ー神戸間の所要時間が12時間50分。ここから単純計算で弾き出すと、モスクワからペテルブルクへの旅はノンストップでざっと15時間弱というところ。尤もこの区間はほぼ直線で走りやすそうだし山もなりフラットな地形のようだからもう少し短縮できるかも。一方、戦時中で物資不足だったことを思えばもう少しゆっくりしていた可能性もあります。いずれにせよ、常識的に言って2日近くかかりそうです。
トロツキーの「ロシア革命史」によると「モスクワ国政協議会」は、「失敗に終わったが、そのことはまえから約束されていた。協議会は何も生み出さなかったし、何も解決しなかった」そうな。左右双方に不満が残る結果となり、却って協議会から締め出されていたボリシェヴィキに支持が集まったと述べています。大体トロツキーのタッチはトゥキディデス式というか、「ほんまに見たんかい!」な臨場感ある表現が多いことも事実なんですけどね。この後「ケレンスキーの陰謀」の章が始まり、オルファンの皆さまにはお馴染みのコルニーロフ将軍との角逐となるわけです。
SSネタ漁りで資料を読んだことは少なくないのですが、7月反動の後のボリシェヴィキの動きとかコルニーロフ将軍とかに気を取られていた。レオの命日の方が算出しやすい気がしていました。
「ユリウスのセリフに『確かきょうだったね、ケレンスキーがモスクワから戻ってくるのは』とある」というヒントをいただいてようやくわかりました。いや、ユリちゃんは全然ノーマークでした。
ケレンスキーがモスクワに行っているのが「モスクワ国政協議会」だと考えれば、国政協議会の開催は1917年8月12~15日。モスクワーペテルブルク間は約600キロですから、1泊2日くらいはかかったとしたら…確かに16日か17日くらいになりますね。
600キロは意外と近くありませんか? 東京ー大阪間が500キロですから、1.2倍かぁ…3倍はあるような気がしていたのはきっと、地図の上下程距離が膨らむメルカトル図法のトリックでしょう。日本部品供給装置工業のサイト→http://jpf.ne.jp/index.html?http://jpf.ne.jp/html/08/08_38.html
によると、1909年、新橋ー神戸間の所要時間が12時間50分。ここから単純計算で弾き出すと、モスクワからペテルブルクへの旅はノンストップでざっと15時間弱というところ。尤もこの区間はほぼ直線で走りやすそうだし山もなりフラットな地形のようだからもう少し短縮できるかも。一方、戦時中で物資不足だったことを思えばもう少しゆっくりしていた可能性もあります。いずれにせよ、常識的に言って2日近くかかりそうです。
トロツキーの「ロシア革命史」によると「モスクワ国政協議会」は、「失敗に終わったが、そのことはまえから約束されていた。協議会は何も生み出さなかったし、何も解決しなかった」そうな。左右双方に不満が残る結果となり、却って協議会から締め出されていたボリシェヴィキに支持が集まったと述べています。大体トロツキーのタッチはトゥキディデス式というか、「ほんまに見たんかい!」な臨場感ある表現が多いことも事実なんですけどね。この後「ケレンスキーの陰謀」の章が始まり、オルファンの皆さまにはお馴染みのコルニーロフ将軍との角逐となるわけです。
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