「オルフェウスの窓」ファンサイト「Die Blaetter」管理人ぼーだらのブログです。いろいろ語っております。ツッコミお願い致します!
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お知らせで引用した歌がちょっと凄すぎて、ちょっと説明不足だったかな~という感じなので、こちらで補足させていただきます
。
「一夜きみの髪もて砂の上を引摺りゆくわれはやぶれたる水仙として」河野愛子
この歌、多分どちらかが死んでいないと状況として成立しなくて、女性歌人の歌であるということを考えると多分死んでいるのは男の方、という設定なんだろうけど、女の方の「やぶれたる水仙」という状態も想像するとよく死体を引っ張って歩けるよな、というズタボロ状態ではないかとツッコンでしまう。いや、そこまでガチに考えなくても、心象風景的にとらえたらええやん、という考え方になるんだろうけれど、実際音読してみてくださいな、なんというか引きずる音が聞こえてきそうなリアリティありますから。
ふっるい映画で「情婦マノン」というのがあります。アンリ・ジョルジュ・クルーゾー監督、1949年のフランス映画ーーたって私だって見てないんです実は
。ただ、有名なシーンがあって、その部分だけ雑誌か本で見たのが忘れられない。どこかの砂漠(すごい言い方だ。多分サハラ砂漠。旧フランス領のどっか)で、男が女を運んでいく。女の足を肩に担いで逆さまに引き摺って行く。つまり女はもう死体になっていて、金髪が砂にまみれていて、なのに剥き出しになった足の線が生々しいまでに健康美という感じでーーうーん、自分で記憶盛っている可能性あるな。実はこのシーンの後に更に生々しく凄惨な続きがあるということをこちらサイトで知りました→
http://www.ivc-tokyo.co.jp/index.html
「淀川長治監修世界クラシック映画撰集」にある。ネット時代便利だなぁ(でもちょっと知りたくなかった気も
)。
私にとっては、掲出歌はこの「情婦マノン」の情景なんですね。元ネタはオペラにもなった「マノン・レスコー」、映画はWW2直後を舞台に置き換え、女がフランスを追われた理由を戦時中にドイツ兵と交渉を持ったからとしています。元小説のニューオーリンズ(フランスのアメリカ植民地)を北アフリカに置き換えている点、ポストコロニアリズム的な読みをしたくもなりますが(笑)。映画では死んでいるのは女、歌では男のようですがそれもいつの間にか渾然一体となって死者が死者を運んでいるような、幻想的な、夢魔の見せる夢のような恐ろしくも美しい情景になっていく。だからこそ水仙の清爽な印象が生きる。清爽であるとともに、どこかこの世のほかめいた一縷の厳しさのある美しさ。薔薇の甘い香りと違って、グリーンノートの強い水仙の香りにはどこか鋭さ、ぱっきりと切断するような男性的(?)な印象が漂います。
「水仙城といはばいふべき城ありて亡びにけりな さんたまりや」(葛原妙子)は島原の乱のイメージでしょうか? これもやはり水仙の香りに、凄惨な死の幻想を重ねた一首と言えるでしょう。
なんかもの凄まじい話になってしまいました。女性歌人のための賞に名前を残す河野愛子は1922年生まれ、1989年死去。まさに昭和を生きた人生だったでしょう。オル窓を読んでいても、時々「昭和の濃ゆさ」に圧倒されてしまうのですが(自分も昭和生まれですが)、この歌も平成には似合わないほどの濃い歌です。なんでかなぁと考えると、やっぱり戦争体験の有無になるのかなぁ。女性の人生に今ほどの選択肢がなくて恋愛にかける熱量に余裕があったから、という考え方もあるけれど、恋ざかりのころに死を身近に感じていた経験ってやはり簡単に想像できない重みがある気がする。結論を言っちゃえば、あまり迫力の恋歌がない時代の方が、多分女性は幸せだと(笑)。

「一夜きみの髪もて砂の上を引摺りゆくわれはやぶれたる水仙として」河野愛子
この歌、多分どちらかが死んでいないと状況として成立しなくて、女性歌人の歌であるということを考えると多分死んでいるのは男の方、という設定なんだろうけど、女の方の「やぶれたる水仙」という状態も想像するとよく死体を引っ張って歩けるよな、というズタボロ状態ではないかとツッコンでしまう。いや、そこまでガチに考えなくても、心象風景的にとらえたらええやん、という考え方になるんだろうけれど、実際音読してみてくださいな、なんというか引きずる音が聞こえてきそうなリアリティありますから。
ふっるい映画で「情婦マノン」というのがあります。アンリ・ジョルジュ・クルーゾー監督、1949年のフランス映画ーーたって私だって見てないんです実は

http://www.ivc-tokyo.co.jp/index.html
「淀川長治監修世界クラシック映画撰集」にある。ネット時代便利だなぁ(でもちょっと知りたくなかった気も

私にとっては、掲出歌はこの「情婦マノン」の情景なんですね。元ネタはオペラにもなった「マノン・レスコー」、映画はWW2直後を舞台に置き換え、女がフランスを追われた理由を戦時中にドイツ兵と交渉を持ったからとしています。元小説のニューオーリンズ(フランスのアメリカ植民地)を北アフリカに置き換えている点、ポストコロニアリズム的な読みをしたくもなりますが(笑)。映画では死んでいるのは女、歌では男のようですがそれもいつの間にか渾然一体となって死者が死者を運んでいるような、幻想的な、夢魔の見せる夢のような恐ろしくも美しい情景になっていく。だからこそ水仙の清爽な印象が生きる。清爽であるとともに、どこかこの世のほかめいた一縷の厳しさのある美しさ。薔薇の甘い香りと違って、グリーンノートの強い水仙の香りにはどこか鋭さ、ぱっきりと切断するような男性的(?)な印象が漂います。
「水仙城といはばいふべき城ありて亡びにけりな さんたまりや」(葛原妙子)は島原の乱のイメージでしょうか? これもやはり水仙の香りに、凄惨な死の幻想を重ねた一首と言えるでしょう。
なんかもの凄まじい話になってしまいました。女性歌人のための賞に名前を残す河野愛子は1922年生まれ、1989年死去。まさに昭和を生きた人生だったでしょう。オル窓を読んでいても、時々「昭和の濃ゆさ」に圧倒されてしまうのですが(自分も昭和生まれですが)、この歌も平成には似合わないほどの濃い歌です。なんでかなぁと考えると、やっぱり戦争体験の有無になるのかなぁ。女性の人生に今ほどの選択肢がなくて恋愛にかける熱量に余裕があったから、という考え方もあるけれど、恋ざかりのころに死を身近に感じていた経験ってやはり簡単に想像できない重みがある気がする。結論を言っちゃえば、あまり迫力の恋歌がない時代の方が、多分女性は幸せだと(笑)。
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