「オルフェウスの窓」ファンサイト「Die Blaetter」管理人ぼーだらのブログです。いろいろ語っております。ツッコミお願い致します!
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やっぱりこの日くらいは、これを考えたほうがいいと思う――ってもう昨日ですが。
たまたま日本人だからこの日にしたけれど、本当は今戦争をしていない国の人間も1年に1回くらいは、戦争を真面目に思うこと、想像することをするべきじゃないかな、と思わなくもない。
「またひとり顔なき男あらはれて暗き踊りの輪をひろげゆく」岡野弘彦『滄浪歌』1947
玉音放送以後、戦争の記憶は意識的に死者のまつり盂蘭盆会に結び付けられてきたと説明(佐藤卓己『八月十五日の神話』)されたりもするが、この1首では、まさに季節と個性をはぎ取られた戦争の死者の姿が暗いリズムの中に一体化している。作者は東京大空襲を体験した元特攻隊員。
近作には「地に深くひそみ戦ふ タリバンの少年兵をわれは蔑(な)みせず」。
たまたま日本人だからこの日にしたけれど、本当は今戦争をしていない国の人間も1年に1回くらいは、戦争を真面目に思うこと、想像することをするべきじゃないかな、と思わなくもない。
「またひとり顔なき男あらはれて暗き踊りの輪をひろげゆく」岡野弘彦『滄浪歌』1947
玉音放送以後、戦争の記憶は意識的に死者のまつり盂蘭盆会に結び付けられてきたと説明(佐藤卓己『八月十五日の神話』)されたりもするが、この1首では、まさに季節と個性をはぎ取られた戦争の死者の姿が暗いリズムの中に一体化している。作者は東京大空襲を体験した元特攻隊員。
近作には「地に深くひそみ戦ふ タリバンの少年兵をわれは蔑(な)みせず」。
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既に「おんな城主直虎」がクライマックスを迎えているこんな時期にまだ丸ネタ引っ張ってごめんなさい。むしろこういう時期だからこそ溜まったものを燃焼しておきたいというか、拾ったネタは使わなソンソンというか(^^;)。どうかご寛恕いただきますようお願い申し上げます。
ヒロイン?対決、「真田丸」登場人物の中でユリウスとの共通性を感じるのがこの方。
大坂城の女あるじ、お上さまこと淀殿茶々姫(画像はNHK)。この役で初めて、竹内結子さんを「圧倒的に美しい」と思いました(失礼!)。それも後半、大坂の陣で。
なんといっても無敵のファムファタル属性! 華やかな美しさの奥に、死の――というより異界の匂いを漂わせるのが「宿命の女」の真骨頂です。ユリウスは「恋に命を懸けた女」というより「宿命に殉じた女」だと思う。人生の早い時期に、避けようのない状態で死の洗礼を受け、ユリウスは複数回の記憶喪失の陰に、茶々は一見糸が切れたような奔放な明るさに隠して死や滅びへの親和性を窺わせる。ユリウスは捨てた記憶の奥にある死神の影におびえ、茶々は大坂の陣の戦死者や遠距離砲撃の犠牲になった侍女に笑みを浮かべて近寄ろうとしては場を凍り付かせる。実はユリウスって結構肝心なところで大事な判断を間違えて(必ずしも彼女のせいとはいえないのだけれど)死を招いているところがあるんだけれど、これも大坂の陣での茶々を連想してしまいます。
「真田丸」は、真田幸村を描きながら「滅びの美」に酔わせないところが一番の個性であり魅力だったと思うのですが、茶々も「母に策があります」と秀頼に告げ、千姫の和平交渉に期待し(期待できないことを視聴者は知っている)、最後まで明るい笑みで死地に向かいます。ユリウスは嘆きの中で死んだようでも、「安息を求めていた」と語りながら最終的に愛の記憶の中で死を迎える(と私は解釈している)。死に魅入られた美女たちは最終的に、傍から見たら悲劇的であっても、ある種の安息というか、自分の人生が一つの円環を描いて閉じた、という認識の中で最期を迎えたように思えてなりません。
そう、ファムファタルとは、単に己のために冷酷に他者を害する女ではないのです(アネロッテは違う)。基本欲望というのは明るいもの、未来を信じているからこそ存在するもの。ファムファタルは、自分に何の悪意もなくても周りを滅びへと巻きこんでしまう美しくも歩く地雷のようなひとを指すのです…。
お祭り終盤なのにちょっと寂しい状況なので、にぎやかしのために去年書いた(そして評判悪かったーー^^;)SS再掲いたしました。万が一にも読んでやろうと方がおられましたら、「百年祭」からお入りください。
というのは、『真田丸』の石田治部小輔三成のセリフですが…かれこれ1年くらい前の話になるんだなぁ(^^;)。

山本耕史さん。NHK公式から拉致(もうHPは閉鎖済み)
『オル窓』でこのセリフが似合いそうなのは言うまでもなくレオ様。カオル様から届いたカッコいいレオ様を見ながら、うん、絶対に合うよね♪と喜んでおりました(^^)。
結構共通点はあると思うんですよね。一見冷たそうだけど実は熱い部分を持っているとか、誰よりもその欠陥を知りつつ(命がけで秀吉を諫めたり、秀吉の政策の危うさを語ったりしてましたから)方向転換が効かないまま前政権に殉じた点とか、コミュ障気味?で能力や才覚のわりにいまいち人望がないところとか(堀北真希のダンナには男は協力せんわ~というオチもあった。ちなみに親友は藤原紀香のダンナ、部下は菅野美穂のダンナw)。何よりある種の孤独の相につきまとわれているところとか。
レオ様人望あまりないですよね。コネを使ってトップを動かせても、腹心の部下とか同志には(ロス君以外)恵まれないと見た。ラスプ暗殺の際に、他の任務、それも機密性の高いのを絶賛遂行中のロス君まで召集してましたもん。そのロス君の情報を受け取るのに、ご自身が場末?みたいなところまでご出御されてましたし。セレブ美男がユリみたいな美女とあんなところで(ただならぬ風情で)会話していたら、もはやスパイ活動じゃないですわ(笑)。
モスクワ市街戦を制したレオさんの方が、忍城攻めで苦戦した治部殿より短期的な戦術眼はあるんだろうけれど、そしてボリシェヴィキの勝利を見越したレオ様と家康にロックオンした治部殿はともに長期的な視野はあるんだろうけれど、中期的な戦術をしくじったところも同じ。治部殿は共通の目標・政策を提示できないため大名たちをまとめ切れず、レオ様は軍隊の厭戦モードを読み誤って臨時政府を切ろうとして足を取られる。あの段階で「忠実な部隊」なんて言っているあたりものすごーく読みが甘い。現実にロシア革命の尖兵になったのは、訳の分からない長い戦争をやらされてうらみ骨髄の下っ端兵士(=徴兵されてきた農民たち)だったのだから、この誤算は致命的です。
実際1917年のレオ様は、試行錯誤っぷりというかブレが酷いなぁと思う。皇室に忠義(あの意味わからないユリウス暗殺司令の後でなぜそこまでするかな、というのはさておき)はいいとして、選択肢としての立憲帝政もなしで、オールオアナッシングで帝政復活かソヴィエトか、というのはかなり無茶。文民統制は理解しても軍隊を抑える必要があるから軍の職にとどまっているのはいいとして、コルニーロフ反乱とか何それですよ。大戦続行するのかしないのかも不明。尤も、例のユリウス暗殺司令をオミットしたことが負い目になって、色々焦った結果だとしたら…ホントに不器用にもほどがある。そしてユリちゃんのファムファタル属性すごい。
山本耕史さん。NHK公式から拉致(もうHPは閉鎖済み)
『オル窓』でこのセリフが似合いそうなのは言うまでもなくレオ様。カオル様から届いたカッコいいレオ様を見ながら、うん、絶対に合うよね♪と喜んでおりました(^^)。
結構共通点はあると思うんですよね。一見冷たそうだけど実は熱い部分を持っているとか、誰よりもその欠陥を知りつつ(命がけで秀吉を諫めたり、秀吉の政策の危うさを語ったりしてましたから)方向転換が効かないまま前政権に殉じた点とか、コミュ障気味?で能力や才覚のわりにいまいち人望がないところとか(堀北真希のダンナには男は協力せんわ~というオチもあった。ちなみに親友は藤原紀香のダンナ、部下は菅野美穂のダンナw)。何よりある種の孤独の相につきまとわれているところとか。
レオ様人望あまりないですよね。コネを使ってトップを動かせても、腹心の部下とか同志には(ロス君以外)恵まれないと見た。ラスプ暗殺の際に、他の任務、それも機密性の高いのを絶賛遂行中のロス君まで召集してましたもん。そのロス君の情報を受け取るのに、ご自身が場末?みたいなところまでご出御されてましたし。セレブ美男がユリみたいな美女とあんなところで(ただならぬ風情で)会話していたら、もはやスパイ活動じゃないですわ(笑)。
モスクワ市街戦を制したレオさんの方が、忍城攻めで苦戦した治部殿より短期的な戦術眼はあるんだろうけれど、そしてボリシェヴィキの勝利を見越したレオ様と家康にロックオンした治部殿はともに長期的な視野はあるんだろうけれど、中期的な戦術をしくじったところも同じ。治部殿は共通の目標・政策を提示できないため大名たちをまとめ切れず、レオ様は軍隊の厭戦モードを読み誤って臨時政府を切ろうとして足を取られる。あの段階で「忠実な部隊」なんて言っているあたりものすごーく読みが甘い。現実にロシア革命の尖兵になったのは、訳の分からない長い戦争をやらされてうらみ骨髄の下っ端兵士(=徴兵されてきた農民たち)だったのだから、この誤算は致命的です。
実際1917年のレオ様は、試行錯誤っぷりというかブレが酷いなぁと思う。皇室に忠義(あの意味わからないユリウス暗殺司令の後でなぜそこまでするかな、というのはさておき)はいいとして、選択肢としての立憲帝政もなしで、オールオアナッシングで帝政復活かソヴィエトか、というのはかなり無茶。文民統制は理解しても軍隊を抑える必要があるから軍の職にとどまっているのはいいとして、コルニーロフ反乱とか何それですよ。大戦続行するのかしないのかも不明。尤も、例のユリウス暗殺司令をオミットしたことが負い目になって、色々焦った結果だとしたら…ホントに不器用にもほどがある。そしてユリちゃんのファムファタル属性すごい。
管理人にとって『オルフェウスの窓』は、一言で言うと「大河漫画」なんですが、一言じゃなくて言おうとしたらまず「大河なんちゃら」の定義から始める必要があると思う(いや必要ない、ちょっと黙れというご意見もあるかもしれませんが、ここ私のイタだもんね)。2016年のNHK大河ドラマ『真田丸』は、管理人にとっては久々に見る「大河」の醍醐味を備えたドラマだったんだけど、あれのことを「大河ドラマらしくない」と言っていた人々がいたことも確かで、つまり「大河なんちゃら」で思い描くものは、結構曖昧じゃないかと思うんですわ。
ブリタニカ国際大百科事典の「大河小説」の項には「ある人物,家族,あるいは一群の人物を中心に,一時代の社会を広くとらえようとした,きわめて長い小説。元来 R.ロランの『ジャン=クリストフ』 (10巻,1904~12) ,プルーストの『失われた時を求めて』 (7部,13~27) をはじめとする 20世紀前半の一群のフランス小説についていった言葉で,初め A.モーロアが用い,大河のような時の流れのうちに展開される小説という意味であった」とありました。おフランス起源とは。仏和辞典引いたらroman fleuveで載ってました。fleuveは「大河:巨大な流れ」ですから、まんまですやん。例に挙げた2作は、19世紀のフランス(というより西欧の特殊な時代と考えたらいいのか)を背景にしてありますが、特に歴史的な事実の言及はない…むしろ、そういうものを排した個人と周辺の人々、さらにその外にある社会という同心円的な構造を往還しながら一つの時代、というより社会を切り取ろうとしている感がある(どちらも1度ならず挫折したんですが私)。ある意味静的です。私が考える「大河なんちゃら」は、もう少し動的、というか、歴史的事件の連鎖の中でかつ消えかつ結ぶうたかたのように生きる人々を俯瞰的に眺め、社会のありようの変化を描いたもの、というところでしょうか。フランスの小説で言ったらデュ=ガールの「チボー家の人々」とかマルローの「人間の条件」とか。NHK大河視聴者の皆様もこの辺までならかなりの数が合意できるんじゃないでしょうか?
多分私の見方は、本来の「大河小説」読者より鈍感で理屈っぽいところがあって、「社会」というもののあり方を「変化」を通してしか知覚できていない。常に比較し続けることで相対的に「社会」を考えようとしているのかもしれません。もう一度「大河なんちゃら」の条件を整理すると「社会・人間群像を広く大きくとらえようとする視点」を持つ作品であり、そのために「長いスパンや社会変化が描かれ、その中で人物の個性が描かれる」、「人物は常に相対化され、社会の中でそれに相応しい大きさで描かれる」という特色を備えた作品、ということになります、私的に(だから、「歴史上の偉人を重厚に描く」だけでは「大河なんちゃら」とは認めません(--)。特定の個人をカッコよく万能感たっぷりに描かれると、社会の広がりや歴史の流れが見えにくくなる。結果「道徳の教科書ですか」みたいな嘘くさい印象になる)。
『オル窓』が「大河」だということは、おそらく原作者様も、『ベルサイユのばら』以上に意識しておられたのではないかと思います。だって、イザークを巡る物語は「池田流ジャン・クリストフ」と呼んでいい構造を持っていますから。それでも、私にとっては『オル窓』の「大河」性が一番強く感じられるのは第3部です。ロシア革命という大きな歴史的事件を描いているというだけではありません。↑の「人物の相対化」「相応しい大きさ」という点で、まさに社会ーーあるいはその表象としての「歴史」ーーと個人の相克、個人やもっと大きいものを押し流していく「大河」のような流れを感じるからです。アレクセイもレオニードも、オスカルに許された「名もなき英雄」のヒロイズムに酔うことさえ許されず退場していく。その非情さ――「神の視線」のような感覚がこの部分には流れていて、それが作品に風格と広がりを与えている。原作者様が「最後の少女漫画」と呼んだこの作品はその点で、少女漫画の枠組みを保持しつつ「歴史」の視点を備えたといえるのではないでしょうか。
『真田丸』は真田幸村(源次郎信繁=堺雅人さん)の死ではなく、それを知りつつ、それを悲しみつつも次の時代を生きてゆく兄信之(大泉洋さん)のアップで物語を終えました。そのスタンスに私はすごく「大河」を感じる。「大河」は主人公の一人や二人死んだって否応なく流れてゆく。時の流れをぶち切ることは、どんな偉人英雄にも許されない。その非情さと個人の小ささの共有は、(あまり評判のよくない)『オル窓』第4部、ダーヴィットとマリア・バルバラ、ダ―ヴィットとイザークの終幕にも共通するものだと思います。
ああ、長かった(^^;)。ここまで読んだ方おられますか~?
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